イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794年5月23日 - 1870年3月10日)はチェコの作曲家、ピアノ奏者。プラハに生まれ、ライプツィヒに没す。
1804年、プラハ音楽院でD.ウェーバーに学び、14歳の時自作の協奏曲を公演。その後ウィーンで作曲理論をサリエリ他に師事し、各地で演奏活動をした。弟子にはフェリックス・メンデルスゾーン、ズデニェク・フィビフらがいる。
メトードのメトード
1839年にフランソワ=ジョゼフ・フェティスとともに、親しい作曲家に練習曲の作曲を依頼し、ピアノ教本「メトードのメトード(Methode des methodes)」にまとめた。モシェレス自作の2曲のほか、現在でも有名な作曲家の作品としては以下のものがある。
メンデルスゾーン: 練習曲 ヘ短調, 1836年
ショパン:3つの新練習曲 KK.IIb-3, 1839年
リスト:サロン用作品?仕上げの練習曲 S142, 1840年(「怒りを込めて〜仕上げの大練習曲 S143, 1852年」の初版)
この他に以下の作曲家による作品が含まれる。
ベネディクト(Benedict、1曲)
ドーラー(Dohler、2曲)
ヘラー(Heller、1曲)
ヘンゼルト(Henselt、1曲)
メロー(Mereaux、1曲)
ローゼンハイン(Rosenhain、1曲)
タールベルク(Thalberg、2曲)
ヴォルフ(Wolff、2曲)
主要作品
現在では24の練習曲Op.70が実用的な練習曲として知られる。
協奏曲
ピアノ協奏曲 第2番 変ホ長調 op.56
ピアノ協奏曲 第3番 ト短調 Op.58
ピアノ曲
3つのアレグロ・ディ・ブラヴーラ Op.51
第1番 ラ・フォルツァ(力強さ)
第2番 ラ・レジェレッツァ(軽快)
第3番 イル・カプリッチョ(奇想曲)
24の練習曲 Op.70
12の性格的練習曲 Op.95
第1番 怒り
第2番 和解
第3番 矛盾
第4番 ジューノー
第5番 おとぎ話
第6番 バッカナール
第7番 愛情
第8番 謝肉祭の場面
第9番 海辺にかかる月の光
第10番 テレプシコラ
第11番 夢
第12番 恐怖
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ
アーネスト・ジョン・モーラン(Ernest John Moeran, 1894年12月31日 - 1950年12月1日)はイギリスの作曲家。
モーランはアイルランド家系の聖職者の息子としてロンドンのヘストン(Heston)に生まれたが、間もなく家族と共にノーフォーク州フェン地方に移った。幼少の頃よりヴァイオリンとピアノを学び、1913年に英国王立音楽大学(RCM)に入学。チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードに師事した。モーランが第一次世界大戦で頭部に負った重症は、晩年の精神疾患の原因に繋がったと言われている。終戦後、大学へ戻った彼はジョン・アイアランドの下で勉強を再開する。彼の本格的な作品は、歌曲と室内楽曲を端緒とした。更にノーフォーク州を含む諸地方の民謡の蒐集、編曲も開始した。
1920年代中期までに、モーランは作曲家のピーター・ワーロックと親交を結び、数年間をケント州アインズフォード(Eynsford)で共に過ごした。彼らが頻繁に開いた酒盛りは地元の人々の中で悪名高かったという。それ以来彼の人生は、後に患う神経症と相俟ってアルコールに依存することとなる。ウォーロックの死後、モーランはアイルランドの祖先に興味を持ち、殆どの時間をアイルランドのケリー州ケンメア(Kenmare)で過ごした。1945年、チェロ奏者であるピアーズ・コートモアと結婚。彼の結婚は、チェロ協奏曲やチェロソナタといった傑作の創作に繋がったが、必ずしも全てが幸せというわけではなかった。1950年、彼は突然脳卒中を起こしケンメアで死去。55歳没。
モーランは、イギリス民謡に大きな影響を受けた最後の作曲家の一人であり、ディーリアスやヴォーン・ウィリアムズ、アイアランドといった叙情的作曲家と同じグループに属する。彼の作品ではしばしばノーフォークやアイルランドの自然風景の影響がはっきりと見られる。ただ、今日忘れ去られた「田園詩人的」な作曲家とは違い、モーランは音楽を通じて喜怒哀楽を自由に伝える才能を持ち、時には感情の赴くままに熱情を顕にすることにも躊躇しなかった。彼のスタイルは保守的だが模写的ではなかったのである。
しかしモーランが生きた時代、このような様式は既に時代遅れなものとして見られていた。最高傑作として名高い、陰鬱でシベリウス的な交響曲ト短調(1924-1937)の成功をよそに、モーランはこの時代遅れな様式に対する決定的な突破口を見い出せなかった。当初彼は室内楽曲で高評価を受け、その後もこのジャンルの重要な作品を生み出し続けたが、彼の最大の業績はヴァイオリン協奏曲(1938)やシンフォニエッタ(1944)、セレナーデ(1948)といった数少ない大規模な管弦楽曲である。近年、彼の作品への注目が強まり、録音も多数出始めたが、アルフレッド・エドワード・ハウスマンやジェイムス・ジョイスの詩に寄せる歌曲集など、未だ多くの作品があまり知られていない。