2009年12月17日

古典日本語の形容詞の活用

形容詞のうち、「新しい」「美しい」「凄まじい」のように、連用形の語尾が「しい」又は「じい」で終わる語群がある。これらは現代日本語では文法上の差異は存在しないが、文語においては終止形以外の活用形に違いがあった。連用形の形からこの活用をするものを「シク活用」、これ以外のものを「ク活用」と言う。「しい」の部分は伝統的に活用語尾と見なされることから、現代日本語の表記法でも語幹に含めず、送り仮名を送ることになっている。シク活用の語は、「楽し」「悲し」「恋し」「恐ろし」など、心の動きを表す語が多いのが特徴である。

またカリ活用と呼ばれる補助的な活用の系列があり、「?くあり」が転じたものである。「高からず」「高かりき」「高かるべし」のように、一部の語尾に接続する際に用いる。現代九州方言の終止形・連体形「高か」は「高かる」に由来する。

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なお已然形の「けれ」は通常、本活用に入れられているが、意味上・形態上から見てカリ活用の方に属し、「くあれ」が「けれ」に変化したものである。「かれ」という語形も江戸時代以前まで併存していた。また奈良時代には本活用に「あり」を介さない「け」の語形が存在し、「けれ」と併存していた。これに由来する「けれど(も)」は独立して現代口語の接続助詞・接続詞となっている。

連用形は「く」の形で現代口語でも変わっていないが、平安時代に「高う」「うれしう」のようなウ音便形が現れ、現在も西日本の方言で使用されている(東日本方言では音便にならない形が存続した)。一方、連体形は「き」が「い」となる「高い」「うれしい」のようなイ音便形が現れ、鎌倉時代以降の口語において動詞と同様、終止形が連体形に統合されるようになって終止形も「高い」「うれしい」のような語形をとるようになった。なおカリ活用の変化は「あり」の変化に従っている。

2009年12月01日

古来においては一日は

古来においては一日は夕方から始まるとする風習があり、元旦は大晦日の夕方から始まると考えられていた。大晦日の夕方に神仏に供えた餅や飯を日の出後に降ろして、具材を加えて煮た物が雑煮のルーツとされている。

また近世以前においては、「餅なし正月」と呼ばれる、正月三箇日に餅を神仏に供えたり食することを禁忌とする風習が、畑作地帯を中心として広く存在していたことも指摘されている。こうした地域は関東・中部・中国・四国地方などに広がっており、その多くはかつては水田を作るには不適当であったため、米以外の作物で定畑や焼畑を行っていた地域とされている。これらの地域では、米及びそれを原料とする餅は自己の土地からは生み出されない外来の食物であり、神仏に土地の豊饒を願う儀式の場において、こうした外来の食物を用いることは禁忌であったと考えられている。こうした地域は、蕎麦や里芋などの自己の土地から産する作物を神仏に捧げ、またこうした食材を主体として雑煮などを作っていたと考えられており、今日でも「餅を使わない雑煮」を作る地域には、かつてそうした禁忌のあった地方が含まれていると考えられている。また、東北や九州では、正月に餅を食する習慣が成立したのは時代が下ってからと考えられており、それらの地域を除くと、餅を主体とした雑煮が食されていたのは畿内周辺及び地方の米作地帯に限定されることとなる。
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こうした風習に代わって餅を主体とする雑煮が全国的に広がっていく背景には、交通や情報伝達の発達もさることながら、石高制に基づく幕藩制による米の生産への政治的・経済的な圧力が畑作地帯を含めて加えられ、実際に灌漑設備の整備や新田開発によって、こうした地域も米作地帯に転換していった影響が大きいとされている。

2009年11月27日

廣松によれば

廣松によれば、マルクスは『経済学・哲学草稿』において、実体であるとともに主体である絶対精神の自己外化と自己回復の過程として歴史をみるヘーゲル的な疎外論を使い、労働を実体=主体と設定してその疎外として私有財産を説明しようとした。しかし労働の疎外そのものがどのようにして発生するのかを説明できなくなって破綻した。それに対して『ドイツ・イデオロギー』は、分業に基づく社会関係を歴史の基軸とみる視点により、ヘーゲル的な疎外論から脱却した。この転換は実体主義から関係主義への世界観の転換であり、近代思想の地平の超克であったという。

廣松は以上のようにマルクスの思想を解釈した上でその外延を大胆に拡張し[9]、哲学的な物象化論の体系を作り上げた。以下は単に外面的な拡がりのみを記す。

物=関係の物象化。関係主義の立場から、人々に物在の相で映現しているその「物」は、諸関係の結節を物象化的錯認したものであると捉え返す。
社会的・文化的形象の物象化。人々の営為が、規範を生み出し、因って以て社会的権力・国家を形成し、また、文化的諸価値を形成する、などを役割行動的協働連関におけるそれぞれの物象化として捉える。
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歴史における物象化。歴史の法則性・構造変動を役割行動的編成体の通時的動態の物象化として捉える。
廣松は諸科学の最新成果を渉猟しつつ論じているが、「物象化論」は、諸学がとかく共時的編成を志向することに対する内在的批判でもある。 1.は、ヘーゲル論理学における反照規定・物論から始まり、相対性理論・量子力学をも射程に置いたもので、西洋哲学の実体主義批判である。2.は、デュルケム、理解社会学に始まる社会学の諸成果を、『資本論』に於ける価値論を導きの糸に再構成をはかっている。3.は、狭義の歴史法則問題だけではなく、1.2.を踏まえて実践的課題を解く方図として志向された。

2009年11月13日

帝国学士院会員議員

1925年(大正14年)に新設された。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選。定員は4(帝国学士院は、分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。互選の方法その他は貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)に定められた。

土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税を納める30歳以上の者の中から互選。互選の方法その他は、貴族院多額納税者議員互選規則(大正14年勅令第234号)に定められた。

当初は各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選され、北海道と沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。1918年(大正7年)に北海道・沖縄にも適用され、1925年(大正14年)には道府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となった。1944年(昭和19年)には樺太からも1名選出されることになり、定員67人以内と改められたが、敗戦による樺太喪失によって一度も選出は行われなかった。
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朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任した。定員は10人以内。

1945年(昭和20年)に創設されたが戦争末期のためほとんど機能せず、1946年(昭和21年)に朝鮮・台湾の統治権を失ったことにより廃止された。

2009年11月02日

代用醤油

代用醤油(だいようしょうゆ)とは、さまざまな原料を用いて、醤油の代用品として製造した調味料。

第二次世界大戦前後、日本では物資の不足のため、本来の醤油醸造に必要な原料である大豆や小麦の入手が困難となり、醤油の生産量が低下した。さらに戦後、醤油は配給品となり、流通量が不足することとなった。参議院において「加工水産物、蔬菜、味噌、醤油等についてもその配給量を増加し得るような方策を講じ」と、増産と流通統制が提案されているように、食糧不足の中でもさらに重要な問題として扱われていた。 しかし普通の醤油は、原料の問題のみならず醸造のために大規模な設備と長期間の醸造期間を必要とし、短期間での増産はできない。そのため代用品として、醤油粕を塩水で戻し、さらに絞ったものを用いたり、魚介類やサツマイモの絞り汁、海草などを原料として用い、カラメルや、前述の醤油粕の絞り汁等で風味を調整したものを用いることがあった。これを代用醤油と呼ぶ。
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醤油の味と香りに似せるためには、うまみと香りを得る必要があり、物資不足の際は入手可能な様々なもの[3]を原料としている。その際は動植物を問わず生産の原料とされ、研究対象としては、人間の廃毛髪を原料としたものも検討された。
魚醤は漁港など、魚介類が豊富な地域では小規模な生産が可能であり、秋田県男鹿半島の「しょっつる」や石川県能登半島の「いしり」等、伝統的に用いられているものもあり、独自の調味料として食文化が成立しているが、代用醤油の一種や、その原料として挙げられることがある。その場合、ハタハタ、イカナゴ、イワシ(コウナゴ)等が原料として用いられる。

2009年10月23日

鉄道事故

鉄道事故(てつどうじこ)とは、鉄道車両の運転時に発生する事故である。列車の遅れ等輸送障害を指して事故と称することもあるが、本項では衝突、脱線、火災など死傷者の発生に至る事故を指す。事故を惹起する危険が高い事態が発生し、なおかつ実際には事故が発生しなかった事象は、事故が発生するおそれがあると認められる事態=インシデントと呼ばれる。

鉄道は大量輸送が特徴であり、事故を起こすと多くの死傷者を出すだけでなく、運転ができなくなることによって社会的にも大きな影響を与える。

国土交通省令鉄道事故等報告規則では、鉄道運転事故としては列車衝突事故・列車脱線事故・列車火災事故・踏切障害事故・道路障害事故・鉄道人身障害事故・鉄道物損事故の7項目を定めている。鉄道による輸送に障害を生じた事態であって、上記の鉄道運転事故以外のものは鉄道事故ではなく輸送障害という。特に雨や雪などで休止や遅延が発生した場合には、輸送障害ではなく、災害と呼ばれる。

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1830年9月15日
イギリス・ランカシャーのパークサイド駅で、リヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日、招待客の代議士ウィリアム・ハスキソンが、同じく招待客だったウェリントンに挨拶をしようと線路を横断しようとしたところ、機関車ロケット号に轢かれ死亡。史上初の鉄道死亡事故。

2009年06月22日

生理学(せいりがく、英:physiology)とは

生理学(せいりがく、英:physiology)とは、生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野。

形態的側面からアプローチする解剖学や形態学と対置される。また異常な生理状態を調べる病理学と対義的に用いられることもある。

広義に解釈すると、生命現象のありのままを研究する生理学は、生物学と同義と言えよう。生物学でもっとも栄誉ある賞がノーベル生理学・医学賞であることが端的な例である。近年では生物学の各分野の融合が進み、生化学や分子生物学の各領域との境目が曖昧になりつつある。

古くは動物生理学と植物生理学に分類されていたが、現在では動物生理学のことを生理学と呼ぶことが多い。ホルモンなどの内分泌を研究する内分泌生理学、細胞内の現象を扱う細胞生理学、神経に注目する神経生理学、また特に神経の電気応答を計測する電気生理学、大脳の機能に特化した大脳生理学、歯科・口腔領域の生理学的特徴を研究する口腔生理学などの分野がある。
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花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
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水球
アスペルガー症候群
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ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
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両生類
ジオキャッシング
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植物生理学(しょくぶつせいりがく)とは、植物学の一分野で、植物の生理機能を研究する領域である。光合成、呼吸、植物ホルモン、生長、栄養、環境に対する応答(屈性や休眠)などを研究対象とする。 関係する分野には植物形態学、作物学、植物病理学、生化学、分子生物学などがある。

歴史は古く、17世紀までさかのぼる。フランシス・ベーコンは水栽培実験により、土壌は植物を支えるだけであると考えた。続いてヤン・バプティスト・ファン・ヘルモントは1648年に定量的な実験を行い、植物の重量は土壌ではなく水のみから得られると結論した。17世紀末にはジョン・ウッドワードが土壌成分も生育に重要であることを示し、18世紀にスティーヴン・ヘイルズがこれをさらに発展させた。

19世紀になるとユリウス・フォン・ザックスが以上のような植物の栄養に関する研究をまとめ、植物生理学という分野を確立した。19世紀には生長や屈性についての研究も始まり(ザックスらのほか、ダーウィン父子の研究もよく知られる)、植物ホルモンを示唆する結果が得られた。

20世紀になると光合成の明反応・暗反応の存在が予想され、これは20世紀半ばの生化学の発展により具体的に解明された。一方、生長調節などに関わる植物ホルモンも20世紀前半から実体が次第に明らかにされ、現在では長らく不明だった花成ホルモンの実体や、その他のホルモンの分子メカニズムの解明が進みつつある。

2009年06月04日

上海国際博覧会

全国人民代表大会(ぜんこくじんみんだいひょうたいかい、拼音: Quánguó Rénmín Dàibiǎo Dàhuì )とは、中華人民共和国の一院制議会で国家の憲法上の最高機関。略称は全国人大または人大、日本では全人代。

全国人民代表は省級の人民代表大会に選出され、一般国民(公民)に直接選挙されるのではない。一般国民が直接選挙できる人民代表は下から二級の人民代表のみであるため、全国人民代表の選出は間接選挙となる。人民代表選挙は中国共産党に指名された候補に対する信任投票となることが多いが、複数の候補から選択する差額選挙が行われることもある。いずれにせよ指導政党である共産党の原則的方針から根本的に逸脱する者が人民代表に選出されることはない。

天安門広場の西端にある人民大会堂が議事堂となる。大会開催中は天安門広場周辺の交通や広場への進入規制がなされる。全国人民代表大会は毎年中国人民政治協商会議と同時に開かれ、共に「両会」と呼ばれ、全国レベルの重要な政治的決定を行なうが、全人代と異なり政協会議は諮問機関である。

全人代は共産党か国務院から出した議案や予算を審議する。議案や予算の否決に至った例はないものの、ある程度の反対票や棄権票が投じられることも近年は珍しくない。
損害保険 整体 菜園 教材 乗物 資格 旅行 ダイエット 特産物 育毛 開業 ペット 在宅 運送 健康 贈答品 抜け毛 墓地 検定 九州沖縄 専門学校 スポット 美容 信託 美容室 興信所 癒し 抜け毛 お祝い 介護 ゲーム スクール 抜け毛 事務用品 学習 ホテル プリスクール 水族館 矯正 キャッシング 興信所 クレジット 調査 抜け毛 家電 介護 アクセサリー ステイ 交通地図 外国語

全国人大を構成する機関として200人程度の委員より成る全国人民代表大会常務委員会があり主にここにおいて立法や政策の決定がなされる。委員は全国の各行政区と軍の選出する代表によって構成されほとんどが中央の中国共産党指導部と軍の将校で占められている。任期は5年である。

全国人民代表大会メンバー数は2,985人という多く、各省・直轄市・自治区の代表、軍の代表よりなる。少数民族や非共産党員も含まれているが約70%が共産党員である。

2009年05月01日

高質

高質(こうじち)は、中世日本において債権者が債務不履行に陥った債権者の財産を私的に差し押さえる行為。また、年貢・公事の滞納者に対して領主が行うこともあった。

ナインティース買物通販サーチ
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サイド・ツゥーくらしのお手伝い情報
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五葉松買物王サーチ
杜鵑草学習対策ナビ
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借用書などに高質を取ることを認める文言を入れあるのが一般的であり、原則的には場所の制約を受けず(質取行為では禁じられているアジール的空間や権力者の保護下でも)に請求が可能であり、債務者を発見次第直ちに債務者が持つ債権額相当分の財産(主として動産)のみを差し押さえることになっていた。ただし、極端な場合には持ち合わせの財産が債権額に達しないことを理由として一般的には差し押さえの対象にはならないと考えられていた牛や馬、妻子などを差し押さえる場合もあった。このため、「高値の質物」(リスクが高い質物)と言われ、それが「高質」の語源とも言われている。

2009年04月17日

ジョチ・ウルス

ジョチ・ウルス(ペルシア語 : Ulūs-i Jūchī)は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・ハーンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。

ジョチ・ウルスは、複数のウルスの集合体から成り立っていたモンゴル帝国のうち、ジョチの後裔によって支配されたウルスである。その名称の発生時点は明確ではないが、14世紀初頭に編纂された『集史』「ジョチ・ハン紀」に、すでにジョチ家の勢力に対して「ジョチのウルス(ūlūs-i jūchī)」という表現が使われており、ティムール朝やムガル朝など下った時代の史料でもジョチ・ウルスの後裔であるウズベクを指して「ジョチのウルス」という用法が見られる。

成立以来、40人近くいたとされるジョチの諸子とその子孫によって分封支配が行われたが、その中央政権は、ジョチの次男バトゥがヴォルガ川下流の平原に築いた都市サライを中心とし、ハンの称号を帯びたジョチ裔の君主が支配した勢力であった。このサライの政権はハンが金で装飾された帳幕(ゲル、オルダ)を宮殿としたことから、ロシア語でЗолотая Орда (ザラターヤ・アルダー)、ウクライナ語でЗолота Орда (ゾロター・オルダー)、英語で Golden Horde と言い、その日本語訳を黄金のオルドあるいは金帳汗国という。また、その支配下に入ったルーシをしばしば金ルーシと呼ぶが、日本語では金ロシアと訳されることが多い。

ジョチ・ウルスが割拠した草原地帯はキプチャク草原と呼ばれるため、日本では、この遊牧国家をキプチャク・ハン国(欽察汗国)と呼ぶことが多いが、キプチャク・ハン国という語が18世紀に完全に消滅するまでのジョチ・ウルス全体を指す場合と、1243年に建設され1502年に滅びたサライを中心とする政権(黄金のオルド)を限定して指す場合と定まっていないので、ここではジョチ・ウルスと呼ぶ。

歴史 [編集]

成立期 [編集]
1206年、チンギス・ハーンがハーンとして即位し、モンゴル帝国を興すにあたって、長男ジョチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルスを与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジョチ・ウルスの起源である。

1224年頃、ジョチが父に先立って死去した後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチがチンギスに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。1235年、クリルタイでの決定に従って、第2代大ハーン、オゴデイはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのテュルク系・フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き、ルーシ(キエフ大公国)、ポーランド、ハンガリーまで進撃した。1242年、バトゥはオゴデイの訃報を受けて引き返し、オゴデイの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。

左右両翼体制の確立 オルダ・ウルスとバトゥ・ウルス [編集]
建設当初のジョチ・ウルスはウルスの西半分(右翼ウルス)をヴォルガ川流域に遊牧する全ウルスの宗主バトゥの王統が統括し、東半分(左翼ウルス)をイルティシュ川流域に遊牧するバトゥの兄オルダの王統が統括した。『集史』によればジョチの世嗣とみなされていた兄弟は彼ら二人を含め14人いたことが知られているが、麾下の諸軍と兄弟たちをバトゥとオルダ両人で折半してこれを統括下に置いている。すなわち、バトゥはジョチの三男であるベルケ、四男ベルケチェルを恐らく中軍(コル)とし、右翼諸軍は五男シバンを司令として六男タングト、七男ボアル、八男チラウカン、十男チンバイら8人を麾下において中軍と右翼諸軍からなる右翼ウルスを形成した。一方のオルダは十二男ウドゥル、十三男トカ・テムル、九男ソンコル、十四男セングムら4人を麾下において左翼諸軍からなる左翼ウルスを形成した(資料によっては十一男ムハンマド・ボラと九男ソンコルが入れ替る場合もある)。このバトゥの右翼ウルスをバトゥ・ウルス、オルダの左翼ウルスをオルダ・ウルスと呼ぶ。

さらに属国として、ルーシの諸公国が従えられた。ルーシの諸公はサライのハンに対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられ、公の任免や生殺与奪をハンに握られた。ルーシの人々は、ジョチ・ウルスの人々をタタールと呼んだため、この属国としての状況を指して「タタールのくびき (татарское иго)」という。

帝国諸王家との紛争時代 [編集]
1256年のバトゥの死後、後を継いだバトゥの諸子サルタク、ウラクチが相次いで早世したため、バトゥの弟のベルケが継いだ。1253年に第四代モンゴル皇帝モンケの発議にはじまるフレグの西方遠征には、ジョチ・ウルスも王族たちと諸軍を派遣している。すなわちオルダ家の次男クリを1万戸ともに派遣し、シバンの四男バラカン、同じくボアルの次男メンクカダルの息子トタル(ノガイの従兄弟)などであった。ところが、ベルケの時代の1260年に、このバラカンが遠征軍総司令フレグに対して呪詛を行ったとして捕縛され、一旦ベルケの宮廷へ送検されこれが事実と確認されたのち、フレグの許に再度送還され処刑されるという事件が起きた。ほどなくトタル、クリら他の二名も不審死し、1262年8月にはジョチ・ウルスから出向した諸軍が逃亡するという事態に陥った。これらの事件をフレグによる陰謀とみなしたベルケはフレグ率いる遠征諸軍と激しく反目する事となった。『集史』のフレグ・ハン紀に載る別の情報によれば、アイン・ジャールートの戦いの敗北の後の宴席でバラカンが急死し、これを毒殺と疑ったトタルがフレグを呪詛したためベルケのもとに送られ再度フレグによって1260年2月2日に処刑され、クリも急死したともいわれる。

1262年11月、ついにベルケはトタルの従兄弟であったノガイを前線司令とする3万の軍勢をカフカス方面へ派遣した。こうして南カフカスのアゼルバイジャンを巡ってトルイ家(イルハン朝)のフレグと対立し戦争となった。フレグ存命中はアゼルバイジャン地方を巡って両軍一進一退を繰り返していたが、アバカが即位してからはイルハン朝軍の猛烈な反撃にあい、司令官ノガイが負傷するなどしてジョチ・ウルス側の戦線が後退する勢いであったため、ベルケは自ら親征軍を組織し、カフカス山系をカスピ海岸から越境してアゼルバイジャン地方のムーガーン低地へ侵攻した。しかし、ベルケはこの遠征中クラ川を渡るため遡上したグルジアのティフリス付近で1266年に陣没してしまった。このようなことでベルケの遠征軍はかれの遺骸とともに首都サライへ退却し、ジョチ・ウルスのアゼルバイジャン遠征は失敗に終わった。

1267年にベルケを継いだバトゥの孫モンケ・テムルの時代には、カフカス以南への遠征はフレグの後継者アバカによりたびたび撃退されたためイルハン朝とは一時和平を結んだ。モンケ・テムルの義母はトルイの三男クトクトの一人娘ケルミシュ・アガという人物で、クビライ、フレグらの姪であった。彼女はジョチ・ウルス内外で非常に尊敬されていた王族で、モンケ・テムルが即位して以降彼女は各方面に働きかけ、トモンケ、バトゥ時代からのジョチ・ウルスと大元ウルス、イルハン朝のトルイ家の両王朝との友好関係の再構築に奔走したことが記録として伝えられる。モンケ・テムル・ハンからトクタ・ハン時代までのイルハン朝、大元ウルスなどとの対外関係は、このケルミシュ・アガの影響が大きいようである。

1260年にモンケが雲南遠征で陣没し、クビライとアリクブケの兄弟による後継戦争が勃発すると、ジョチ・ウルスは一応カラコルムの留守居役であったアリクブケ政権を認証していたが、基本的にクビライ、アリクブケ両陣営には中立的立場を維持した。1264年にアリクブケの降服によってクビライ政権が名実共にモンゴル皇帝(カアン)位を獲得すると、これを追認している。モンケ・テムル時代には東方の中央アジアについてもまたフレグの兄でモンゴル帝国大ハーンのクビライに反攻するオゴデイ家のカイドゥを討伐しようとしたが結局和平を結び、バラクへの牽制に協力した。このような情勢のためマーワラーアンナフルに存在したジョチ家の食邑の確保などを優先したため大ハーン・クビライとはやや距離を置かざるを得なくなった。この頃マムルーク朝のバイバルスにアバカのいる北西イランを協力して挟撃するよう秘かに要請してもいた。

1277年、クビライによって中央アジアのカイドゥらの討伐に派遣された皇子ノムガンとココチュがモンケの息子で遠征軍に参加していたシリギらによって捕縛される事件が起きた。いわゆるシリギの乱である。カイドゥらに引き渡されたノムガンらはモンケ・テムルの許に護送されて、クビライはバヤン (バアリン部)を西方へ派遣してこれの鎮圧へ向かった。このような中央アジアの国際情勢は緊迫していたなか、1280年にモンケ・テムルが没した。ジョチ・ウルスはこのためにただちにクリルタイが招集され、右翼諸軍の統括者になっていたノガイと左翼諸軍の統帥オルダ家の当主コニチによって、モンケ・テムルの同母弟トデ・モンケがハン位に推戴された。1282年にシリギがバヤンに降服し、ノムガンらもジョチ・ウルスから大元ウルスへ送り返された。ジョチ・ウルスでのノムガンらは上述のケルミシュ・アガらが率先して歓待し彼らを保護したため、クビライ家からは感謝されたようである。

しかし、このトデ・モンケの即位を快く思わなかったモンケ・テムルの世嗣たちは、1287年反乱を起こしてサライを占領し、トデ・モンケ・ハンを廃位して首謀者のひとりトレブカをハン位に継がせて反乱首謀者の王族たちによる共同統治をはじめた。

このクーデターに参加しなかったらしいモンケ・テムルの五男トクタは兄アルグイらに追われたが、西方にいた右翼の統帥ノガイに助けを求め、ノガイと共謀して最終的に反乱を起こした王族たちを誘い出し、彼らを処刑した。こうしてノガイらの推戴によって1291年にトクタがハン位を継いだ。

バトゥの子孫が支配するサライのジョチ・ウルス中央政権(黄金のオルド)では、ジョチ家傍系であるジョチの七男ボアル家の当主ノガイがジョチ家王族の年長者であったことから、ジョチ・ウルスの君主であるハン以上に権力を行使しバトゥ家の当主たちの動向に干渉・対立した。ノガイはハンガリー、ブルガリアに勢力を伸ばし、バルカン半島方面に一大勢力を築き上げるとともに、ハンの改廃を自由に行ったとされるが、1299年にモンケ・テムルの子トクタ・ハンと争い、殺害された。ノガイ、トクタ両人はこの紛争の解決にイルハン朝のガザン・ハンに調停を使者を送って依頼したが、ガザンはジョチ家内部の紛争については不干渉を表明したため、バトゥ家内部での武力衝突は避けられないものとなった。

ノガイ没落後の14世紀初頭、トクタ及びその後を継いだ甥のウズベク・ハンのもとではバトゥ家のウルスは最盛期を迎え、首都サライは国際交易と商工業の中心として栄えた。また、ウズベクは支配下の遊牧民をイスラム教に大々的に改宗させ、ジョチ・ウルスのイスラム化がこの頃急速に進んだ。

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